明日はゴー宣道場、今日は夕方から倉持師範の『リベリベ』の
初読で赤線を引いていたところを再読して、
個人的に興味を持って読みかけていた、自由についての本も
読んで、準備した。楽しみだ。
きょうも朝から「コロナ後遺症」のニュースをやっていて、
幻冬舎plusの記事も読まれたみたいで、感想が届いた。
「熱中症の後遺症なんて知らなかった」と。
そうだよね、テレビは熱中症の恐怖は煽らないから。
インフルエンザで「幼児を守るために行動変容しろ」とも
言わないし。
「後遺症」はコロナだけじゃないんですけど…
4つの身近な「後遺症」を調べながら考えた
https://www.gentosha.jp/article/17103/
お嬢さんをNICUで見守ったときの体験を書いてくれた方の
コメントを読んで、その通りだなあと思った。
重い障害を背負うことも、病気にかかって死ぬことも、
事故で死ぬことも、自分の人生とは関係ないことのように
処理して、なにかまるで不死の人生がつづくかのような
錯覚のなかで日々を送りつづけるなかで、
生きているとはなんなのか、
一度もまじめに考えたことのないまま、
恐怖を利用して視聴率を稼ぐ悪人にあっさり扇動され、
液晶パネルの中の他人の生死をガン見し、
怯える羊の群れのなかに埋もれてしまう人々。
しかもコロナで。
でも、最近こう思う。
日本には、年間10万人も肺炎死者がいるとなれば、
80代、90代の人が、肺炎で死ぬというのは、
ひたすら不運で悲惨なことのように言っているけど、
実は、一昔前にくらべて、
別の病気が原因で60代ぐらいで死ぬということが減って、
「ふいの感染症(ウイルス、細菌、誤嚥)で肺炎になるという
きっかけがあるまでは、死ぬことがなくなってきた」
というのが、すごくポピュラーになったとも言えるのでは?
長寿大国になれば、肺炎大国にもなるんじゃない??
そんな気がしている。
きょうは明日にそなえて早く寝よ。